深大寺で、静かに整う|厄除けで感じた日本の祈りと文化

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やさしい光の背景に「脅さない。急かさない。日本の祈り。」という言葉を重ねた、日本の祈りを表現したアイキャッチ画像

厄除けという言葉に、少し身構えてしまう人は多いかもしれません。しかし、深大寺で体験した厄除けは、恐れるものではなく、静かに心を整える時間でした。

🔖 この感覚を、あとで静かに読み返したい方へ

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心が整う言葉や、文化の記憶に、いつでも戻れる場所として。
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深大寺で感じた「怖くない厄除け」

深大寺で厄除けを受けた日、不思議と怖さはありませんでした。むしろ、静かに整っていくような感覚が残っています。

堂内に入ると、お経の声が響き、場の空気がゆっくりと変わっていきます。その声は強く押しつけてくるものではなく、深く、安定していて、自然と呼吸が整うようでした。

途中、法螺貝の音が響きました。

これまでに目にしたことのない光景でしたが、とても澄んだ音で、お経とよく調和していました。言葉がわからなくても、音そのものが身体に届く。祈りとは、意味よりも先に感覚として伝わるものなのだと実感します。

お坊さんの言葉が、心に残った理由

厄除けの場で、お坊さんがこんな話をしてくださいました。

人は自由を求めて生きるけれど、いつの間にか不自由になっていく。

それでも人は、「自分は自由に生きている」と言うようになる。

しかし人は一人では生きられず、社会の中で生きている。

だからこそ人の意見に耳を傾け、意見を交わすことで、物事を一面ではなく多面で見られるようになる。

この話は、説教ではありませんでした。静かで、穏やかで、でもとても本質的でした。

自由とは、好き勝手に振る舞うことでなく、関係性の中で、自分の力を正しく発揮できる状態なのだと。その言葉が、自然と胸に落ちてきたのを覚えています。

火を守る背中が、語っていたもの

堂内の一角では、ひとりのお坊さんが火を守っていました。薪をくべ、火の様子を見ながら、絶えず微調整を続けています。

火は強すぎても、弱すぎてもいけません。常に状況を見て、黙々と調整し続ける必要があります。

その後ろ姿は、とても大きく、頼もしく見えました。言葉はなくても、積み重ねてきた時間や覚悟が、背中から伝わってくるようでした。

道を極めた人とは、こういう人なのだと、身体で理解した瞬間でした。

堂内を照らす、やさしい光

堂内の天井には、彫刻が施された灯りが吊るされていました。黒を基調とした灯りには、上・中・下で異なるモチーフが刻まれているように見えます。

はっきりとした意味がわからなくても、天から人へ、静かに光が降りてくるような印象がありました。

その光は威圧的ではなく、ただ、そっと照らすためのもの。

日本の祈りは、強さで人を動かすのではなく、やさしさで人を整えるのだと感じました。

厄年・厄除けとは何か|日本独自の考え方

日本には、厄年(やくどし)という考え方があります。

人生の節目にあたる年齢は、心身や環境の変化が起きやすい。そのため、無理をしすぎないよう注意し、立ち止まって自分を見直す目安として受け継がれてきました。

厄年は不幸が起きる年ではありません。むしろ、これまでの生き方を振り返り、整えるためのサインのようなものです。

また、日本で行われる厄除けは、悪いものを力づくで追い払う行為ではありません。

本来は、「厄難消除(やくなんしょうじょ)」
――困難があっても、それに飲み込まれないよう整えることを意味します。

恐れを煽るものではなく、生き方を静かに支える知恵だと感じています。

神社と寺の違い、そして世界の考え方の違い

神社と寺の違いを、簡単に説明すると

日本には神社と寺がありますが、この二つは成り立ちも役割も異なります。

神社は神道に基づく場所で、自然や土地、祖先などを神として祀ります。一方、寺は仏教の教えに基づき、仏さまや仏教思想に触れる場所です。

日常的に使い分けている日本人にとっては当たり前でも、海外の人から見ると、この違いはとても不思議に映るようです。

それでも日本では、初詣は神社、厄除けや供養は寺といったように、目的に応じて自然に選び分けています。

そこには、宗教というよりも生活の中に根付いた文化としての祈りがあります。

日本の厄除けは「不運を恐れる」ためのものではない

厄除けという言葉から、「悪いことを避ける」「不幸を追い払う」というイメージを持つ人も多いかもしれません。

しかし実際に体験して感じたのは、厄除けは不運を怖がる行為ではなく、心と環境を整えるための時間だということでした。

節目の年に立ち止まり、自分の状態を見つめ直し、これからを静かに歩いていくための準備をする。

日本の厄除けは、未来をコントロールするための儀式ではなく、今の自分を整える知恵なのだと感じました。

世界には「厄年」という考え方がない国もある

この厄除けの話を、海外の友人としたことがあります。その際、興味深い話を教えてもらいました。

インドには、日本のような厄年や不運な年という年齢観・宗教的な区切りの考え方は、あまりないそうです。「起こるべきことは、何をしても起こる」そう考える人が多いのだと。

不運を避けるのではなく、出来事をそのまま受け入れる。それが自然な価値観なのだと聞きました。

オーストラリアなどでも、年単位で不運を意識する文化はあまり見られません。

文化が違えば、物事の捉え方も、向き合い方も違う。

とはいえ、日本の厄除けもまた、恐れから生まれたものではなく、静かに自分を整えるための文化なのだと思います。

人のやさしさに、そっと支えられる

この日、厄除けの前後で、思いがけない人のやさしさにも触れました。

困っている様子を察し、理由を聞き、見返りを求めることなく手を差し伸べてくれる。

最後には、「よかったですね」と、笑顔で送り出してくれる。大げさではありませんが、心に残るやり取りでした。

日本の文化は、こうした日常の所作の中にも生きているのだと思います。

文化として残したい、日本の祈り

この体験を通して、強く感じたことがあります。これは、守りたい文化だということです。

お坊さんになる覚悟はありません。それは、その道を選び、極める人が担う役割です。

しかし、体験したことを言葉にして残すことはできます。日本語でも、英語でも。

もしこの記事を通して、日本の祈りや文化に興味を持つ人がいたなら。

それは、小さな恩返しになると感じています。

静かで、確かな道を歩く

深大寺で感じたのは、恐れではありませんでした。静かで、確かで、見守られているという感覚です。

今、自分はしっくりくる道を歩いている。ゆっくりでも、確実に。

この感覚と、この記憶を、大切にしていこうと思います。日本には、こうした祈りと文化が、今も静かに息づいています。

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※本記事の内容は、2026年1月時点で実際に体験した出来事や感じたことをもとに構成しています。行事の内容や対応は時期や状況によって変わる場合がありますので、詳細は公式情報をご確認ください。

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